自分探しは、あまりいいイメージがないけど…

Yahooニュースを見ていたら、自分探しについて書かれている記事を見つけました。

自分探しと言うと、何というか浮世離れしていると言うか、なに無駄なことをしているのか、そんな雰囲気がありますが、果たしてどうなのか…。 今後は、どうなっていくのか…。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190321-00000003-withnews-bus_all&fbclid=IwAR1nGypdcY8-_kw8tXMVwu9CVZMMUKcViQ3Fi2GwgBcv1Ohiin2B0tnMRUQ

人間は赤ちゃんの頃、親を通して自分の存在を確認して、自分を知っていきます。

どういうことかと言うと、例えば親にかまってもらって「可愛いね」とか「あなたがいてうれしい」と言うことを言われたり、態度で示されることで、この世界に居ていいんだと認識します。

それが高度になって、こんな事をしたら喜ばれる、こんなことをしたら怒られた、そんな感じで親との関り方を学び、それが社会との関わり方へと変化していきます。

ところが、何らかの事情があったり親のストレスが大きいと、親との関りが少なくなったりうまくいかなかったりして、子供が社会とかかわっていく上で、色々な問題が出てきます。

例えば、親が生きていくために嫌なことをやらないといけないと思っていたり、嫌だと思ってはいけないと感じていると、子供もその生き方を受け継いで、ストレスを感じながらも生きていくためにと嫌なことをやっていたり、ストレスを感じているはずなのにそれを無意識のうちに感じないように生きていたりします。

他にも、親が子供をあまりかまわなかったりすると、子供の中で自分が育たないため、外の世界との共通認識が育たないため、どこか疎外感や孤立感を感じたり、自分というものがどういう物かよくわからない喪失感をもったりします。

前者のストレスのある生き方を引き継ぐと、何となく自分が支配されている感覚になったりするので、そこから解放されたいと思うようになるので、尾崎豊のように何者からの解放と言う感じになります。

この場合は、ストレスを感じてはいけないとか、本音を隠さなければいけないと言う感覚が抑圧になっているので、それが何かを探すことになります。

後者のような、自分というのがよくわからないと、人間は不安になるので自分というものはどんなものか、自分に向き合って自分を探すことになります。

こちらの場合は、自分が曖昧でどう感じているかわからないので、そのスッと消えてしまいそうな感情を探すことになります。

どちらの場合も、自分がどう感じているかという事を探すことで、これはアドラー心理学に通じるものがあります。

…そうなると、自分探しと言うものは、別にどこかに旅行に行ったりなど特別なことをしなくてもできることになってしまうので、そういった自分探しと言うのは廃れていくのかもしれません。

ただ、アドラー心理学やマインドフルネス瞑想、ヨガなどの自分が感じることに主眼を置いたことが流行り始めていることを考えると、自分探しが「自分が何を感じているか」を探すことにシフトしつつあるともいえると思います。

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